1日1つの「日本的!」な楽しみ


by michiru-hibi1007

桜の開花宣言      壬午(みずのえうま)の日・旧暦2月24日

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世の中に何が起ころうとも、今の季節になったら、あちらこちらで交わされるが決まりの桜の話題

「今年は開花が遅れるらしいよ。ここんとこずっと寒いしね」
「ああ、それなら今年の新入生は、桜の下で記念写真が撮れるってもんだ。俺の孫のときは、桜のやろうさっさと散ってしまいやがってさぁ。葉桜背景に入学記念って、じじぃとしてはちょっと納得いかないね。」
これはご近所の魚屋さんでの会話を盗み聞き。
我が身をじじぃと呼ぶのはこの魚屋の店主で、柔和な笑顔に飛び出すきっぷの良い江戸弁というアンバランスが魅力。聞けば、きっちり三代続いた江戸っ子だそうで、江戸の行商・魚の棒手振をさせたら、似合いすぎて魚の活きまで良くなりそうな、じじぃというにはあまりに精悍な感じです。
「ところで、今年は、いつです?」
「うーん。上野の桜に相談だねぇ」
営む魚屋は間口も奥行きも広く、奥で黙々と魚を捌くやら威勢の良い売り子のおばちゃんやら従業員も多数。一堂うちそろっての花見は、もちろん、毎年恒例、場所は上野のお山でとのことらしいです。

さて、その上野のお山はもちろん、江戸東京の桜の名所は、そのほとんどが人の手で整えられた場所で、他には、向島の墨田堤に、品川の御殿山、王子の飛島山と、ちょっと遠出の小金井がその主だったところ。
こうして並べてみると、現代の桜の名所とほぼ変わりなくというのに、ちょっと驚きを感じませんか?
桜の植栽事業では、なんといっても八代将軍徳川吉宗が有名ですが、上野のお山の植樹は、もっと早く三代将軍家光の頃には始まっていて、寛永寺を開いた天海僧正が桜好きだったことから、家光が吉野山の桜を植樹することを命じたのが始まりとされています。
つまり、上野の桜の発祥は、ほかより一足早く、かれこれ350年以上前ぐらいの計算。
以降、上野・寛永寺あたりには、様々な桜が植樹されたとみえて、江戸後期に出版された「江戸名所花暦」という、花の時期と名所をガイドする書物によれば、寛永寺は「東都第一の花の名所にて、彼岸桜より咲き出でて、一重、八重追々に咲き続き、弥生の末まで花の絶えることなし」とあります。
現代は、上野公園の花見は染井吉野の開花とともに始まりますが、実は、それ以外の多くの品種の桜が楽しめる場所。そのルーツも江戸の初期にあったようです。

ちなみに、染井吉野は、江戸後期に染井の植木職人により品種改良がなされた説が有力で、それが明治初年から植樹で各地に広まったもの。なので、江戸時代の上野のお山・寛永寺には、まだ染井吉野はありません。
パッと咲いてパッと散る華やかさが勝負の染井吉野と比べてしまえば、やや楚々として地味な山桜などの木々の下、江戸人たちの花見の宴は催されていた。しかも、場所は、桜の名所といっても、寛永寺の境内、将軍家の墓所です。もちろん規制は厳しく鳴り物、夜桜は禁止でした。
江戸の花見は無礼講といわれ、たとえば、大店ならば、旦那、番頭、手代に丁稚のわけ隔てなく、長屋は大家も差配さんも店子もいっしょに、みんなで等しく大騒ぎしたともいわれますが、現代の羽目はずしすぎのお花見とは、かなり雰囲気が違う、それでも節度と優雅さが勝ったものだったのではないでしょうか。
...なんて、花も見ないで酒を飲み騒ぐ、そんな現代の花見のステロタイプに辟易とする、これは個人的でやや勝手な想像です。

本日開花宣言がなされました
まだ、花見には早い数輪の開花ではありますが、どうぞ、皆様、桜が咲き誇ったらいたら、まずは、その花々をご堪能ください。
桜は、こうして何年も前からの春の記憶をそっと、春空の下咲かせております。
by michiru-hibi1007 | 2011-03-28 16:32 | 植物のこと