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1日1つの「日本的!」な楽しみ


by michiru-hibi1007

七草籠と佐原鞠塢(きくう)                丁卯(ひのとう)の日・旧暦12月14日

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正月七日の人日の節句・七草粥の日が近づくと、正月飾りの華やかさの陰で、ひっそりお目見えしている感のある「七草籠」

春の七草、芹、薺(なずな)、御形、繁縷(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)を小さな籠に寄せ植えし、木の名札を立てた...それだけなのになんとも粋でめでたい感じがするあれですが、我が下町では、店の軒先やら個人宅の玄関口やらにいつのまにやら飾られ始め、七草の日が過ぎてもそのまま置かれる。
あんがい夏ぐらいまでそのままで、籠の中身のほうは、もとは雑草と野菜なもんで悪条件でもすくすくと育ち、道行くひとは、その成長具合を日々楽しんだり...と、いつしかのどかな風景が繰り広がります。

この「七草籠」のアイデアは、向島百花園を開いた佐原鞠塢(きくう)によるもので、彼の著作『春の七草考』に添えられた挿絵や当時流行の芝居に登場、江戸人たちになじみになった「なづな籠」などから考案したものといわれています。
実際、ずいぶん古い時代から、正月の飾りとして鞠塢の交友先に届けていたんだそうです。
それは、佐原鞠塢が逝って代替わりしても、さらに新しい時代の明治に入っても、年末年始の佐原家のご挨拶用として続き、やがて宮中にも献上されるようにもなります。
こんな七草籠がお年始なんかに届いたら、ちょっと...いやかなり嬉しいでしょうねぇ。
ああ、うらやましい。
...と、そんなこんなで、それがなんとなく真似されて、花屋の店先などでも売られるようになったということでしょうか。

ところで、この佐原鞠塢(きくう)という江戸の人。
「七草籠」もしかりですが、そもそも百花園の成り立たせ方からしてもう相当なプロデューサー振りを発揮した方でありました。

もとは、仙台の産。成人してから江戸に登り、しばらく中村座の芝居茶屋・和泉屋で働いたのちそこでためたお金を元手に日本橋住吉町に骨董屋を出します。
奉公の時分から、客あしらいが上手く人に好かれる好人物だったとか。加えて商才もあって、店は繁盛。骨董店には、当時の文人墨客があしげく出入りするようになり広い交友関係を作られていったんだそうです。
しかし、40歳手前で商売上で、賭博容疑をかけられ捕縛、さっさと隠居してしまいます。

ちなみに、佐原菊塢は隠居後の名前で、その名で、現在の墨田区向島あたりに隠居所を構えてからの活躍のほうが興味深く、百花園はその筆頭でもあります。

園芸に非常に興味をもっていた菊塢は、1804年に向島墨堤のほとりに3000坪の広大な土地を求め、まずはそこに300本以上の梅の木を植えます。
当時人気だった亀戸の梅屋敷の向こうをはってその名も「新梅屋敷」。
これが、「百花園」の前身で、その後、骨董屋当時から交友があった文人たちの力を借りて...というより、プロデューサーとして結集させて、万葉集や詩経など日本や中国の古典に登場する花木・草花を集め、まさに「百花」園の名にふさわしい庭園を作り上げてゆくのです。

さらに、PRにも手腕を発揮。
たとえば、谷中七福神と江戸最古を争う「向島七福神巡り」は、佐原菊塢の考案とも言われ、この周遊コースはたちまち流行り、もちろんそのコースのひとつ福禄寿さんのいらっしゃる場所を百花園と定め、来園者を急増させもしたんだそうです。

もちろん、百花園そのものも、やって来て退屈しないアレコレの工夫がこらされていました。
たとえば、複製ですが今も残されている門額は 太田南畝(蜀山人)の筆で「花屋敷」。両側の柱にある細長い額・聯(れん)の「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」も、当時著名な書家・大窪詩仏によるもの。
そもそも「百花園」という命名自体も、姫路藩主の弟にして当時人気の絵師&俳人であった酒井抱一なんだそうで、もうその入り口付近で観るもの聞くものからして、当時でいえばものすごすぎる有名人満載。

ちなみに、太田南畝の「花屋敷」の文字の「敷」が、崩して判らないように書いてあるのですが、それも当時のまま。江戸時代に「屋敷」といえばそのまま武家の持ち物でしかなく、町人が経営する庭に「屋敷」などとつけるのは実はご法度。
この崩し字は、そこを知ってて黙認されていたあかしでもあって、そんなところも当時からの観どころだったんじゃあないでしょうか。
なんだか江戸人が好みそうなエピソードです。

さて、さらに菊塢は1819年に園内に窯を築き、隅田川周辺の土を使った楽焼も行います。
なずけて「角田(隅田)川焼」。
百花園には、当時から茶屋があって、来園者たちは、そこで梅干やらお煎茶やらを味わったということですが、梅干およびお茶の葉は園内の梅の木あるいは茶畑で採れたもの。そして、それをいただく茶碗や皿はその「角田川焼き」によるものだった。
これらも来訪者にとっては楽しいバリュー。
さらに、市場で販売する際の上手い宣伝にもなったはずです。
そんなこんなも、土産話に伝わって、われもわれもと来園者は増えていき、百花園のお茶代の売り上げだけで現代に換算して1日10万円以上にもなったんだとか。

...うーん、隠居というより、立派な事業。たいしたものです。

こうして、佐原菊塢は、70歳で逝くまで文人墨客達に囲まれ、好きな園芸を楽しみつつ、それを仕事に成り立たせ、生きた。ちょっとうらやましい人生ですね。

さて、話は戻って「七草籠」。
写真は、年始を寿ぐ意味で作られる、ジャンボ七草籠。
正月7日に、百花園を訪ねれば、その製作過程とともに、皇室へ献上される「献上七草籠」なども見学することが可能だし、もちろん、庭園内で七草粥を楽しむこともできます。

百花園は、東京大空襲でそのすべてが焼かれ、実は、戦後に東京都の公園として再建されたものですが、入り口の門額も聯(れん)ももとどおりに復元されて、七草籠の展示や七福神巡りに始まる四季折々の行事も多彩。
訪ねればやはりそこはかとなく楽しいところで、佐原菊塢その人の精神も健在な場所のままで今に続いているようです。

...なあんて、こんなネタを書くにはちょっと日にちがたちすぎました。
庭園内には、こんな七草のじか植えコーナーもあり、今年はコレで七草たちの成長を楽しみつつ、是非とも来年に備えてください。
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ちなみに、「七草籠」も少量ですが一般への予約販売もなされているようですよ。
by michiru-hibi1007 | 2012-01-07 16:22 | 小さなカミサマ・縁起物